ちょっぺこ日記

日々雑感や本の感想、息子の不登校のこと、自分の病気のこと(癌やパニック障害とか)等をつぶやいています。

太宰治文学は『青春のはしか』❓

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 実家の本棚にある太宰治全集。

 太宰治の作品を初めて読んだのは高校時代。記憶がおぼろげなのだが、確か高校2年生の読書感想文で『人間失格』を読み、3年生で『女生徒』を読んだような気がします。その他の作品も高校時代に読んだような……もう20年も前のことでうろ覚えですが、太宰治は好んで読んでいました。

 少し脱線しますが、何故か芥川龍之介は怖くてあまり読めませんでした。『歯車』『河童』『ある阿呆の一生』などを読みましたが、何だろう、何か強く深淵に引っ張られるような畏怖を感じて、それ以上は読むことができませんでした。あの頃の自分は、文学を自分に引き寄せて、強い感受性で読んでいたからかもしれません。

 しかし、何故か太宰治は怖いとは感じませんでした。それどころか、あ、これは私のことを言っているんだと勝手に親近感と感動を覚えて、……恥ずかしい話、涙が滲んだくらいです。

   それから二十歳前後で太宰治全集を購入して全作品を読み、太宰治を研究した本も読んでみたのですが、そこには、私が感じた親近感について書かれていました。太宰治への傾倒は、多くの若者が通る道で「太宰治は青春のはしかである」というものでした。

 つまり、若く多感な青春時代に太宰治を読んだ読者の多くが「あ、これは自分のことだ。太宰治はわかってくれている」と感動し、傾倒するのだが、それは「はしか」のように一過性のもので、時期が過ぎ大人になってしまうと、「何であんなに傾倒していたのかな…」と熱が冷めてしまうということのようです。

 自分自身の太宰治の読書歴を振り返ってみると、確かにそうした側面はあるなと思いました。高校時代、これは自分のことだと書いてあることがわかるわかると読んでいましたが、二十代で同じ作品をもう一度、読んだとき、少し読み方が変わった記憶があります。

 おそらく30代後半の今、もう一度、太宰治を読み返しても、10代の感性で感じたものはもう得られないかもしれません。そういう意味では、確かに太宰文学は「青春のはしか」であると言えるでしょう。

 けれども、太宰治が自殺した年齢に近づきつつある今、もう「青春」とは言えない年齢ではある今、何故かもう一度、太宰治文学を読み返してみたいと思っている自分がいます。はしかのように熱に浮かされたわけでもなく、ただ、淡々とした気持ちで……何というのかな、この気持ちは。

 

「まっとうな大人になんかなれない、世間に合わせることもできない、世の中の偽善が苦しくて、けれど偽善すら行えない自分が苦しくて……何となく自分は自殺するんじゃないかと考えていた10代の自分。けれど、今、何とかここまで生きてきたよ、今ではすっかり大人です。そんな私ですが、もう一度、本を開いていいですか? もう一度、何かを感じられるでしょうか?」

 

 そんな、過去と今を行き来するような不思議な気持ちです。青春のはしかならぬ「中年のはしか」でしょうか(笑)。