ちょっぺこ日記

日々雑感や本の感想、息子の不登校のこと、自分の病気のこと(癌やパニック障害とか)等をつぶやいています。

「僕は、そして僕たちはどう生きるか」梨木香歩

 梨木香歩さんの作品はこれまでも『裏庭』『村田エフェンディ滞土録』『西の魔女が死んだ』などを読んでおり、結構好きな作家さんであったので、この「僕は、そして僕たちは…」も読んでみたいと前から思っていました。で、図書館にありましたので、読んでみることにしました。

 虫探しが好きな主人公のコペル君が、叔父のノボちゃんと一緒に、ユージンの家に行くことで物語が進んでいきます。ユージンは、死んだおばあちゃんの家で一人暮らしをしている、不登校の少年です。コペルとユージンは昔は仲がよく、ユージンの家でよく一緒に遊んでいましたが、今はユージンが学校に来なくなり、少し距離を感じています。そこにユージンのいとこのショウコが登場し、昔、おばあちゃんがいたこの家の庭の植物で葉っぱご飯を作ったことを思い出し、作ってみることに・・・。

 そんな感じで物語自体はユージンの亡くなったおばあちゃんの家の庭を中心に淡々と描かれていくのですが、そこに出てくる植物の描写や、間に挟まれる『思考』に惹きつけられました。

 この作品が伝えたいことは何なんだろうなと考えると、以下のことなのかなと私は思いました。

 

 ・「普通」、「大勢の側の論理」に違和感を感じたら、「自分」の頭で考えてみることが大事ということ。

 ・自分の頭で考えるためには、最初は集団から離れて一人で考える時間も必要だということ。でも、人が生きるためには群れは必要。「強制や糾弾のない許し合える、ゆるやかで温かい絆の群れ」が必要であるということ。

 

 そういうメッセージを受け取りました。

 以下はネタバレを含みますので、ご了承ください。

 

 コペルが読んできた戦時中の本には、愛国少年少女が描かれています。途中まではコペルは自分と同じような子供たちだと思っているのですが、「鬼畜米兵」がとか贅沢は敵だということを言い始めると、ちょっと違う、この子たちは僕とは違うなと距離を感じています。

 戦時中に兵役拒否をし(実際には兵役免除にはなっている)、一人、山の洞穴で暮らしていた米谷さんというおじいさんの話があるのですが、当時の愛国少年少女や大勢の人々と米谷さんは対比の関係で描かれています。「集団」と「個人」の関係とも言えるかもしれません。

 

でも、人間って弱いものだから、集団の中にいるとつい、皆と同じ行動を取ったり、同じように考えがちになる。あそこで、たった一人きりになって、初めて純粋に、僕はどう考えるのか、これからどう生きるのか、って考えられるようになった。そしたら、次に、じゃあ、僕たちは、って考えられたんだ。

 

 と、米谷さんは言っていますが、この作品のメインテーマの一つはここだなと思いました。集団が正義をかざすときの危うさ、そのときに自分で考えることの難しさなど……。

 それは戦時中のエピソードだけでなく、AV監督に言葉巧みに騙されてしまった「インジャ」という女の子のエピソードからもうかがえます。インジャの事件については、コペルが後にこう考えたという形で物語の途中に差し込まれているのですが、そこでコペルは「普通という言葉が持ち出される場面のうさんくささについて」考えるべきだと考えています(このコペルの考えは、ユージンの家での出来事から時間が経過して、考えられるようになったんだろうなと思いました。ユージンの家にいたときには、きっとそこまでは考えられなかったと思います。ユージンの事件のことで大分、同様していたんじゃないかなと思いますし…)。

 

 大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも、違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が足がかりにするべきはそこだ。自分基準で「自分」をつくっていくんだ。

 他人の「普通」はそこに関係ない。

 

 これはコペルが自分自身で考えて導き出した気持ちなのでしょうね。

 それはユージンとコペルの学校での事件のことをずっと考えたであろうコペルが導き出し答えなのでしょう。「集団」と「個人」、「集団の正義や普通」と「自分自身の普通」についてこの対比構造は、戦時中の米谷さんのエピソード、インジャのエピソードで語られてきましたが、コペルにとってがんっと衝撃的だったのが、ユージンのコッコちゃんの出来事です。

 ユージンが飼っていた鶏の「コッコちゃん」が杉原という教師の、命の大切さを学ぶ授業をしようという提案により、しめられ食料にされてしまいます。クラスメートは興味津々といった感じで、やろうやろうという雰囲気になり、そのとき、コペルは何も言えずに、周りに流されてしまう。コペルだけが「コッコちゃん」がユージンにとって大切なペットであることを知っていたのに……。そして、その事件自体をコペルは忘れてしまっていたのです。

 ユージンの告白でその出来事を思い出したコペルは激しいショックを受けます。自分自身も戦時中の愛国少年少女と何ら変わらないのだと思い知らされたのです。

 

 つまり、大勢の側の論理に簡単に操られてしまうという、「非常時」という大義名分の威力に負けて、自ら進んで思考停止スイッチを押し、個を捨ててしまう

 

 自分の中にあるそうした部分、危うさに愕然としてしまうコペル。自分がユージンを傷つけてしまったんだと激しく後悔していて、そのショックのありようは本を読んでいる私にも伝わってきました。

 これまでの「愛国少年少女」と「米谷さん」、「AV監督」と「インジャ」という対比の中で、コペル自身は自分は後者の側だと無邪気に信じていたわけですから。それが「教師、クラスメート」と「ユージン」という対比構造にいたって、自分自身はユージン側ではなかったんだ、前者と同じだったんだと気づかされるのですから、相当衝撃的だったろうなと思います。自分が思ってきた自分自身の在り方が崩れちゃう感じかな、と。

 

 結局、集団と個人は相いれないというか、救われないのかな…、集団の胡散臭い正義の前では、個人は集団から離れることでしか生きていけないのかな…と考えてしまいました。コペルの出来事とは違うけれども、普段、なんというのかな集団に流されてしまうことってありますものね。

 

 でも、コペルは帰着点を見つけていきます。それはショウコがユージンに言った言葉や、そのあとノボチャンが語る言葉にも現れています。

 

大事なことがとりこぼされていく。人間は傷つきやすくて壊れやすいものだってことが。傷ついていないふりをしているのはかっこいいことでも強いことでもないよ。

 

無意識のうちに相手が閉めたドアなら、ノックして入っていこう、意識的に閉められたドアなら、入る必要もないドアなんだって思って先を歩こうっていうようなこと 

 

 そして、ラストで「インジャ」が皆のところに出てきたときにコペルの心の中の語りかけ…。「人がいきるためには群れは必要」ということ。

 

やあ。

よかったら、ここにおいでよ。

気に入ったら、

ここが君の席だよ。

 

 集団に傷ついて距離を置いたとしても、ずっとひとりでは生きられない。戻りたくなったら、戻ればいいのだし、戻ってきた人がいたら、温かく迎えてあげればいいのだ。そういう温かさを感じるラストでした。集団に引きずられて自分の思考を見失うな、けれども、集団は必要なんだという落ち着くところに落ち着いた感じがしました。

 

 

僕は、そして僕たちはどう生きるか

僕は、そして僕たちはどう生きるか