以前、NHK「知恵泉」の太宰治特集に関する記事を書きました。
太宰が親戚の子どもに語った「学問がある人が教養人ではない。ひとのつらさに敏感な人を本当の教養人という」という言葉に深く共感したことなどをまとめた記事です。
番組の中で、安藤宏教授が、太宰の書簡の中にも同じようなことが書いてあるとおっしゃっており、原文はどういう文章なのかなと気になっていました。
先日、実家の太宰治全集から見つけることができたので、今回はその書簡原文を紹介したいと思います。
(↓これはNHK「知恵泉」太宰治特集の感想を書いた以前の記事です)。
「文化」とは何か、「優しさ」とは何か~書簡原文から~
該当する書簡(お手紙)は、昭和21年4月30日付の河盛好蔵氏にあてたものでした。
河盛好蔵氏は、終戦直後、『新潮』という文芸誌の編集に参加していた方です。太宰は、当時、故郷の青森県金木に疎開していましたので、原稿執筆の件で河盛氏と書簡のやり取りをしていました。
書簡本文は、全部で2,000字ほどありますので、該当する部分だけ引用します。
文化と書いて、それに、文化(はにかみ)といふルビを振る事、大賛成。私は優といふ字を考へます。これは優れるといふ字で、優良可なんていふし、優勝なんていふけど、でも、もう一つ読み方があるでせう? 優しいとも読みます。さうして、この字をよく見ると、人偏に、憂ふると書いてゐます。人を憂へる、ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番優れてゐる事ぢやないかしら、さうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。私は含羞で、われとわが身を食つてゐます。酒でも飲まなけや、ものも言へません。そんなところに「文化」の本質があると私は思ひます。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、敗けるものです、それでよいと思ひます。私は自身を「滅亡の民」だと思つてゐます。まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学ぢやないのかしらん。
NHKの番組で取り上げられていたのは、書簡のこの部分だと思われます。太宰は、文化、優しさについて言及し、文化は含羞(はにかみ)であるということ、ひとの「つらさに敏感な事」こそ、優しさで優れていると綴っています。
この書簡原文を読み、私は太宰の弱者に寄り添う優しさと、文化や優しさが滅びゆくものであるという意識に興味を持ちました。「滅亡の民」という表現から、「斜陽」という小説が思い浮かびました。太宰治の終盤の作品である「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」などは、この滅びの意識や弱者や敗者の側からの物語が根底にあるような気がしたので……。
でも、太宰の生きていた時代から70年も後の時代を生きている私が書簡から感じることは、太宰が当時考えていたこととは違うんだろうなぁとは思います。作家の意図と、読者の解釈の間に隔たりがあっても、別に構わないと個人的には考えていますが、一応、書簡が書かれた時代背景等も気になったので、調べてみました。
この時期の太宰治の生活について
太宰治がこの書簡を書いたのは、昭和21年4月です。 西暦でいうと1946年ですね。太平洋戦争が1945年に終わったので、戦争終結の翌年ということになります。
太宰は昭和20年に東京大空襲に遭い、妻の実家(甲府)に疎開していましたが、そこも空襲に遭ったため、青森県金木にある太宰の実家に疎開していました。そこで、終戦を迎えることになります。翌年の昭和21年11月まで青森にいたので、前述の書簡も、青森の生家で書いたのでしょう。
太宰が玉川で入水自殺したのが、昭和23年6月ですので、死ぬ2年ほど前ということになりますね。
簡単に年表でまとめますと、以下のとおりです。
敗戦後の「文化」に対する抗議という意味合い
太宰治が「文化」について書簡で書いていたのが敗戦の翌年ということがわかりました。多分、太宰のとっての「文化」というキーワードを読み解くには、戦争、敗戦という出来事が欠かせないのかなと思います。
この時期、太宰は他の書簡で次のように書いています。
日本人は皆、戦争に協力したのです。その為にマ司令部から罰せられるならば、それこそ一億一心みんな牢屋へはひる事を希望するかも知れません。御心配御無用です。
多分、戦争中は皆が日本を応援し、協力していたのに、いざ、負けたとなったら、手のひらを返したかのように、自分は戦争には反対だったと堂々と声を上げる周囲の文化人に、太宰は反発していたのではないでしょうか。
その抗議の意味合いで、文化はハニカミであるとし(堂々と自分の意見を言う人間は信じられないと感じて)、弱者に寄り添うことこそ優しさだと言っていたのかな……と、これは、私の勝手な想像ですが、そんな気もしました。
また、太宰治の実家は地主だったのですが(青森県第4位の資産家だったそうです)、終戦後のGHQによる農地改革で、地主制度がなくなり、衰退していきます。そのことも太宰の「滅びの民」という意識に影響してるのかなとも思いました。
当時の背景は知らなくても、心に響く言葉
当時の時代背景を調べてあれこれ考えてみましたが(好き勝手に…。間違いだらけだろうな…^^; まあ、一解釈ということでお許しください)、けれども、当時の背景や、70年前を生きた太宰が本当は何を言いたかったのかわからなかったとしても、それでも、太宰治の言葉は心に響きます。
今を生きている私の胸に響くのです。それってある意味、すごいことではないでしょうか。
この現代に生きていて、ああ、何か世の中で生きにくいなぁ、うまく生きていけない気がする、自信が持てない……と悩んできました。思春期は今以上に悩んで、辛くて、毎晩毎晩、ひとりで泣いていました。
そんな頃、太宰治の文学に出会いました。『女生徒』を読み、女性の厭らしさに辟易しながら、自分自身の女性性にがっかりしちゃう気持ち、ころころ移ろいゆく感覚、「美しく生きたいと思います」という理想など、あ、わかるわかる!と共感しました。また、『人間失格』の世の中に迎合できない主人公の苦悩やら、自意識をさらけ出したエピソードなど、色々考えさせられました。『駆け込み訴へ』のイエスに対するユダの愛情たっぷりな感じも、そういう捉え方もあるのかぁと興味深かったりしたものです。
太宰の没後70年……、それでも、色あせない魅力が太宰の言葉にはあるように思います。