ちょっぺこ日記

日々雑感や本の感想、息子の不登校のこと、自分の病気のこと(癌やパニック障害とか)等をつぶやいています。

インフルエンザ予防接種。

 昨日、インフルエンザの予防接種を打ってきました。私と息子。夫は職場で集団接種するらしいです。

 

 小児科で名前を呼ばれた息子。こわい!と逃げ出してしまいました(^_^;)。

 夫が捕まえて、抱き抱えて、診察室へ……。怖い、イヤーと言っていた息子ですが、注射されたら、意外とけろっとしていました。実際の痛みに泣いていたのではなく、痛いかもという不安に怯えていただけみたい。

 

 そして、私も注射。…インフルエンザの予防接種って、液体を注入する3秒ほどの時間が地味に痛いですね^^;。最近、やった胃カメラの筋肉注射の痛みに似ています。

 

  と、まあ、無事にインフルエンザ予防接種終了。

 息子は1ヶ月後に2回目がありますが。

 

 しかし、本日……私は腕が腫れて痛いです。

 息子は、微熱。副作用かな?

 というわけで、おうちでおとなしく仮面ライダージオウとルパンレンジャーを見ております。

 

 ジオウ…、オーズ編まで来ましたね。次週は鎧武ですか。そして、ゲイツの雲ゆきが怪しい。ゲイツがタイムジャッカーが擁立するアナザーライダーになっちゃいそうな予感。

 すごく真面目で頭がかたくて、正義感が強い人間ほど、悪に転落しちゃって、なかなか抜け出せない、みたいな展開がありそう(笑)。

復活(笑)。

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 先週末のクヨクヨから、復活しています。

 

 仕事と人間関係については開き直って、やることを淡々とやっていたら、持ち直しました。

 …滅入るときは滅入りますが、まあ、そんなものです。仕事なんて…。

 しかし、給料日になるとチャリーンとお金💰が入った喜びにウキウキします(笑)。

 来月はボーナス。頑張ろう。…って、金のために仕事してるんかって感じですね(^◇^;)。

 

 日曜日には、のとじま水族館までお出かけ。

 ちょっと遠いので、疲れましたが、気分はリフレッシュできました(^_^)。

 

 今週も後二日。頑張ろう…。

 

 

泣くのを堪えて…

 今日は、何だか、泣きそうになる一日でした。

 まずは、朝。いつものごとく、いや、いつも以上に、息子が保育園に行きたくないと暴れました。なだめながら、何とか家から出して、何とか保育園への道を歩きました。 

 でも、保育園を目前にして行きたくないと引き返そうとする……抱きかかえて、保育園の玄関に入りました。

 しかし、靴を脱ごうとしない、行きたくないとと言い続ける……。

 

 よくよく話を聞くと、お友達が意地悪するから嫌、年上の子が砂場のフライパンでお尻を何度も叩くから怖い……などなど。

 いじめ?  

 保育園の先生の話では、他のお友達はむしろ息子と遊びたくてちょっかいを出すのだけど、息子は怖がって逃げてしまうとのこと。

息子 本人からしたら、意地悪されて嫌だと感じているんだろうな…。臆病で人見知りで繊細なとこがあり、しかし、不安や恐怖から攻撃的になっちゃう…のかな?と勝手に推測……。

 

 ああ、ここで、保育園も行かなくていい、幼稚園も行かない、学校も行かなくてもいいよ、と言えたら、どれだけ楽だろうな……と思いながらも、保育園の先生と一緒に必死になだめて、何とか行かせました。

 

 保育園から出たあと、ちょうど担任の先生がいらしたので、息子の話をしました。先生からも園での様子を聞いたり……。

 話をしながら、何か泣きそうな気分になりました。何に対して泣きそうなのかはわからないんだけど…息子よ、大丈夫かという心配と不安、毎朝のやりとりに対する疲労、ああ、仕事に遅れそうという焦り……ぐっちゃぐちゃです(^◇^;)。

 

 

 そんな少しブルーな気持ちでも、何とか時間に間に合い、職場へ。

 間に合うと言っても、時短だから皆より遅い出勤です。地味に肩身が狭い……。

 子どもがいない頃は、むしろ、開始1時間前には出勤して仕事を片付けていた私……それが今では…。

 

 

 そして、机の上に置かれた書類。

 詳しくは書けないけど、とにかく、職場に苦手な人達がいて、性格なんだろうけど、きつい物言いをされるので、たまにへこみます。

 そして、今日、心が弱っていたせいか、ぐぐぐっと胸が重苦しくなるほど、へこみました。多分、客観的には大したことないことなのに。

 涙が出そうになったけど、こらえてこらえて。そうしたら、鼻水がたくさん出てきました(笑)。

 ぶぶーっとティッシュで鼻をかみ、仕事仕事。

 

 

 そして、帰宅して、いつもなら保育園にお迎えに行く前にバタバタと洗濯物を畳んだり、晩御飯作ったりする30分ほどの時間を……泣きながら、スマホでブログ書いてしまっています。

 

 はあああ、

 

 

 吐き出すと少しマシに?

 …ネガティブなことばかり書いて失格ですね。

 いやいや、でも、もともと私はキラキラしてない、前向きでもない、かなりダークな人間なのです……。

 太宰治サリンジャーを好んで読むあたり、前向きキラキラではないのは一目瞭然かもしれませんが(^_^;)。

 

 

 

 さてさて、書きなぐって、少し毒吐いて、よっしゃー、今から息子を迎えに行ってきます。

 顔洗って、涙の痕跡を消さねば…!!

 

 

 

 

と 、え、地震

気のせいかな。

胃カメラしてきました。

 夏頃から胃の具合が悪いのか、オエっとえずいて、ゲップが出て、困っていました。

 多分、精神的なものだろうなあとは思いましたが、病気だとまずいので、念のため、胃カメラしてきました。 

 数年前に胃がん検診で引っかかってるので、念のため。胃カメラ自体は3回目です。

 

 結果は異常なしでした(^ ^)。

 

 早食いのせいか、空気がたまっていて、ゲップが出るみたい。ゆっくり食事をしましょうと言われ、おしまい(^◇^;)。

 …胃は何ともないのに、症状はあるんだから、辛いのは辛いんだけどなぁ。。

(ま、体の病気という可能性はつぶせたので、よしとしましょう。気持ち悪くなったりするのは、…多分、精神的な部分も大いにありますから)。

 

 

 さて、胃カメラについて備忘録としてメモしておきます。

 今回も口から胃カメラ、鎮静剤ありでやりました。

 鼻から胃カメラもありましたが、私は慢性副鼻腔炎なので、やめました。鼻に疾患がある人は、鼻から胃カメラだと鼻が痛いらしいので。

 

 検査の流れは以下の通りです。

 

  • ジュースみたいな液体をコップ一杯飲む。
  • 喉にスプレーで麻酔。喉に溜めて、30秒後に飲み込む。
  • 胃の動きを止める注射を肩に打つ。筋肉注射。
  • 処置室に移動。
  • 静脈に鎮静剤(セルシン50mg )を注射。意識が朦朧となる。
  • 胃カメラ投入。
  • 意外と意識がはっきりしていて、結構、辛い💦。太い管が喉につかえている感覚。苦しいが、我慢。
  • 終了。ふらつくため、車イスで移動。

 

  …これまで、違った病院で胃カメラしてきましたが、鎮静剤の効きは病院によって違いますね。

 今回は、かなり意識が残っていたので、苦しかった……とはいえ、鎮静剤なしよりは楽なんでしょうが。

 

 前々回は完全に意識をなくし、二時間以上、爆睡。

 前回は、序盤の記憶はなく、ずっとぼんやり。

 今回は、胃カメラ挿入の瞬間は記憶がないですが、ぐぐぐと喉を通る感覚はあり、ちょっと痛くて、苦しかったです。

 

 でも、効きが弱いおかげで、30分くらいで歩けるようになりました。それはありがたいのかな。

 

 そんなこんなで、胃カメラ体験記でした。

 少なくとも胃の病気じゃないとわかり、安心できました(^ ^)。

ひらがな。急にいくつか読めるように。

  先日、息子がひらがなの表を持ってきて、

 

「これが、じいじの名前、○○○。これが、ばあばの名前、○○○」

 

 と言いながら、該当するひらがなを指差していきました。

 

 息子は5歳ですが、まだひらがなを全部読めません。

 家では、特に教えていないのですが……急に読めるひらがながいくつか増えたので、親の方がびっくり(笑)。

 

「すごい! 読めるの!!  偉いねぇ」

 

 と褒めまくりです。

 

 とはいえ、まだ半分も読めないんですが…。

 

(教えた方がいいのか?  無駄に小中高の教員免許を持っていますが、家庭で勉強させていないな…まあ、いっか(笑))。

 

でも、ペースは遅くても、少しずつひらがなを覚えていってる模様。

 

 少しずつ成長中♬

 

 見ていて、嬉しくなります。

 

 

 

 

 

今日のよかった第33回〜息子とお散歩〜

 

昨日、息子がお腹が痛いと言うので、念のため、病院に連れて行きました。

 数日前は、いかにも風邪という症状で、その後、お腹の痛みだけ残っているようで。

 診察の結果、風邪がお腹に来たのでしょう、腸の動きが弱いです、とのことで、整腸剤をもらい、終了。

 

 その後、半日ほど、家の中で過ごした息子は、退屈そう……。熱もないし、と、少しだけ近くを散歩しました。 

 平日の昼下がりだからか…いや、田舎だからでしょうか、道行く人もほとんどいない……静かな時間が流れていました。 

 

 お天気も良くぽかぽかです。

 息子と手をつなぎ、ゆっくりお散歩。

 

 何だかしみじみと幸せだなぁと感じました。

 息子と一緒にいる幸せもそうだし、平日の昼間って、何だかそれだけで贅沢な時間に思えて、うっとりしてしまいます(^ ^)。

 

 

【太宰治】文化とは、優しさとは何か?(書簡本文から)

 以前、NHK知恵泉」の太宰治特集に関する記事を書きました。

 太宰が親戚の子どもに語った「学問がある人が教養人ではない。ひとのつらさに敏感な人を本当の教養人という」という言葉に深く共感したことなどをまとめた記事です。

 番組の中で、安藤宏教授が、太宰の書簡の中にも同じようなことが書いてあるとおっしゃっており、原文はどういう文章なのかなと気になっていました。

 先日、実家の太宰治全集から見つけることができたので、今回はその書簡原文を紹介したいと思います。

 

(↓これはNHK知恵泉太宰治特集の感想を書いた以前の記事です)。

choppeco.hateblo.jp

 

 

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「文化」とは何か、「優しさ」とは何か~書簡原文から~

 該当する書簡(お手紙)は、昭和21年4月30日付の河盛好蔵氏にあてたものでした。

 河盛好蔵氏は、終戦直後、『新潮』という文芸誌の編集に参加していた方です。太宰は、当時、故郷の青森県金木に疎開していましたので、原稿執筆の件で河盛氏と書簡のやり取りをしていました。

 書簡本文は、全部で2,000字ほどありますので、該当する部分だけ引用します。

 

 文化と書いて、それに、文化(はにかみ)といふルビを振る事、大賛成。私は優といふ字を考へます。これは優れるといふ字で、優良可なんていふし、優勝なんていふけど、でも、もう一つ読み方があるでせう? 優しいとも読みます。さうして、この字をよく見ると、人偏に、憂ふると書いてゐます。人を憂へる、ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番優れてゐる事ぢやないかしら、さうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。私は含羞で、われとわが身を食つてゐます。酒でも飲まなけや、ものも言へません。そんなところに「文化」の本質があると私は思ひます。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、敗けるものです、それでよいと思ひます。私は自身を「滅亡の民」だと思つてゐます。まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学ぢやないのかしらん。

 

引用元:『太宰治全集12』筑摩書房 1999年4月初版第一刷発行

 

 NHKの番組で取り上げられていたのは、書簡のこの部分だと思われます。太宰は、文化、優しさについて言及し、文化は含羞(はにかみ)であるということ、ひとの「つらさに敏感な事」こそ、優しさで優れていると綴っています。

 この書簡原文を読み、私は太宰の弱者に寄り添う優しさと、文化や優しさが滅びゆくものであるという意識に興味を持ちました。「滅亡の民」という表現から、「斜陽」という小説が思い浮かびました。太宰治の終盤の作品である「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」などは、この滅びの意識や弱者や敗者の側からの物語が根底にあるような気がしたので……。

 でも、太宰の生きていた時代から70年も後の時代を生きている私が書簡から感じることは、太宰が当時考えていたこととは違うんだろうなぁとは思います。作家の意図と、読者の解釈の間に隔たりがあっても、別に構わないと個人的には考えていますが、一応、書簡が書かれた時代背景等も気になったので、調べてみました。

  

この時期の太宰治の生活について

 太宰治がこの書簡を書いたのは、昭和21年4月です。 西暦でいうと1946年ですね。太平洋戦争が1945年に終わったので、戦争終結の翌年ということになります。

 太宰は昭和20年に東京大空襲に遭い、妻の実家(甲府)に疎開していましたが、そこも空襲に遭ったため、青森県金木にある太宰の実家に疎開していました。そこで、終戦を迎えることになります。翌年の昭和21年11月まで青森にいたので、前述の書簡も、青森の生家で書いたのでしょう。

 太宰が玉川で入水自殺したのが、昭和23年6月ですので、死ぬ2年ほど前ということになりますね。

 簡単に年表でまとめますと、以下のとおりです。

 

  •  昭和20年(1945年) 太宰37歳(数え)
    7月、空襲のため、妻子とともに青森県金木の生家に疎開
    8月、天皇による終戦の詔。
  • 昭和21年(1946年) 太宰38歳
    11月、青森から三鷹の旧居に戻る。

  

敗戦後の「文化」に対する抗議という意味合い

 太宰治が「文化」について書簡で書いていたのが敗戦の翌年ということがわかりました。多分、太宰のとっての「文化」というキーワードを読み解くには、戦争、敗戦という出来事が欠かせないのかなと思います。

 この時期、太宰は他の書簡で次のように書いています。

 

 日本人は皆、戦争に協力したのです。その為にマ司令部から罰せられるならば、それこそ一億一心みんな牢屋へはひる事を希望するかも知れません。御心配御無用です。

 

 多分、戦争中は皆が日本を応援し、協力していたのに、いざ、負けたとなったら、手のひらを返したかのように、自分は戦争には反対だったと堂々と声を上げる周囲の文化人に、太宰は反発していたのではないでしょうか。

 その抗議の意味合いで、文化はハニカミであるとし(堂々と自分の意見を言う人間は信じられないと感じて)、弱者に寄り添うことこそ優しさだと言っていたのかな……と、これは、私の勝手な想像ですが、そんな気もしました。

 また、太宰治の実家は地主だったのですが(青森県第4位の資産家だったそうです)、終戦後のGHQによる農地改革で、地主制度がなくなり、衰退していきます。そのことも太宰の「滅びの民」という意識に影響してるのかなとも思いました。

 

当時の背景は知らなくても、心に響く言葉

  当時の時代背景を調べてあれこれ考えてみましたが(好き勝手に…。間違いだらけだろうな…^^; まあ、一解釈ということでお許しください)、けれども、当時の背景や、70年前を生きた太宰が本当は何を言いたかったのかわからなかったとしても、それでも、太宰治の言葉は心に響きます。

 今を生きている私の胸に響くのです。それってある意味、すごいことではないでしょうか。

 この現代に生きていて、ああ、何か世の中で生きにくいなぁ、うまく生きていけない気がする、自信が持てない……と悩んできました。思春期は今以上に悩んで、辛くて、毎晩毎晩、ひとりで泣いていました。

 そんな頃、太宰治の文学に出会いました。『女生徒』を読み、女性の厭らしさに辟易しながら、自分自身の女性性にがっかりしちゃう気持ち、ころころ移ろいゆく感覚、「美しく生きたいと思います」という理想など、あ、わかるわかる!と共感しました。また、『人間失格』の世の中に迎合できない主人公の苦悩やら、自意識をさらけ出したエピソードなど、色々考えさせられました。『駆け込み訴へ』のイエスに対するユダの愛情たっぷりな感じも、そういう捉え方もあるのかぁと興味深かったりしたものです。

 太宰の没後70年……、それでも、色あせない魅力が太宰の言葉にはあるように思います。