ちょっぺこ日記

日々雑感や本の感想などを綴ります。

「舞台」西加奈子

 西加奈子さんの『舞台』という小説を読みました。自意識過剰な青年・葉太がニューヨークに初めて一人旅。初日に荷物を盗まれてしまうが、恥の意識から助けてと訴えることができず……というあらすじです。

 

この本を読むきっかけ

 下記のいもこさんのブログの記事に、この『舞台』という本に太宰治の『人間失格』がよく出てくるというお話があり、興味を持ちました。

 西加奈子さんの本は読んだことがなかったのですが、太宰治作品は好きで、書簡や随筆含め全作品を読んでいたこともあり、「太宰の人間失格がどういう風に作品に登場するのかな?」と気になったので、今回、『舞台』を読んでみることにしました。

 

www.imokotohon.com

 

中盤あたりまでは滑稽で思わず笑っちゃったw

(以下、ネタバレも含みますので、ご注意ください)。

 さて、この『舞台』という作品なのですが、主人公の葉太がとにかく自意識過剰。ニューヨークで観光客みたいにはしゃいだら恥ずかしい、周りの目も気になると、頭の中であれこれ考えています。

 こう行動したら、周りからこう思われるんじゃないか、かっこ悪いんじゃないか等々、自分の脳内で勝手に考えてしまい、言動が演技じみてしまってます(笑)。脳内の思考がずっと書かれているのですが、思わずくすくすと笑ってしまいました。

 この自意識過剰で恥の意識を持っている点は、太宰治人間失格』の主人公・葉蔵と似ています。葉太自身も、太宰治に傾倒しているらしく、こんな風に言っています。

 

 小説を読み始めたのは、中学に入ってからだ。父の書斎で見つけた、太宰治の『人間失格』を読んで、衝撃を受けた。幼い虚栄心や、強い羞恥心や、切実な卑怯、自分が知っていること、体験していることの全てが書かれていた。

 

 そんな感じで、自意識過剰な葉太ですが、セントラルパークでパスポートや財布が入ったバッグを盗まれてしまいます。そのとき、葉太がとった行動が…

 

  最終的に葉太が選んだことは、笑うことだった。

 涼しい顔をして、薄く、笑うことだった。

 葉太は、へらへらと笑い、笑い、笑った。

 

 いやいやいや、へらへら笑ってたら、不気味ですよw 助けを求めようよと読みながら、滑稽で面白かったです。大丈夫か、主人公!?

 

葉太に訪れた変化に成長感じた~「恥知らず」という自覚~

 貴重品を全て失った葉太のその後の行動もある意味、常軌を逸していますが(軽く精神疾患が入っている)、9.11テロの現場に立ったところで変化が訪れます。

 死んだ父に思いを馳せて、思わず泣きそうになった自分がいかにもな感じで駄目だとまたしても自意識に捕らわれて、思うがまま行動できない葉太でしたが、ふと周りにたくさんの死んだ人間が立っていることに気づきます(葉太は死んだ人間が見えるらしいです)。

 9.11テロで亡くなった人たちでした。彼らの視線を感じて、葉太は胸の内に苦しさがあふれていきます。

 

「お前の苦しみなど、死の苦しみに比べたら。」

 それはやはり、葉太の声だった。

 葉太は、自分の苦しみが、恥ずかしかった。恥の意識の強さを、心から嫌悪してきた。いわれなく死んでゆく人間がいる中で、自分のその苦しみが、本当に取るに足らない、そして大いにつまらないものだということは、完璧に理解していた。

 だから、彼らが見えるのだ。自分には、「死者」がはっきり、見えるのだ。そしてその「死者」は、自分を見つめていなくてはならない。彼らの視線は、生きているのに、まるごしでその「生」に感謝できない自分を戒める、非難の目なのだ。 

 

 その「苦しみ」は「俺の苦しみなのだ」と葉太は気付きます。そして、泣きながら、ニューヨークの街を走りに走り、ようやく他人に「ヘルプミー」助けを求めました。 

 ラスト、色々な人に助けられて、自分が未熟だったと思い至った葉太がこう述懐します。

 

 俺は、とんでもない恥知らずだ。 

 

 これまで葉太は「恥の意識」に捕らわれいて、自分が恥を知っている人間だ、だから変なことはできない、演技しなければならないと思ってきましたが、最後に「恥知らずだ」と思っています。この変化が「成長」と言ってしまうと、薄っぺらい言葉なんだけど、「成長」なのかなと思いました。

 私はこの本を読んだとき、最初は、あまりに葉太の自意識過剰っぷりが激しくて、おもしろおかしくて笑ってしまっていました。何となく面白い系の作品なのかな、そういう落ちで終わるのかなと勝手に予想していたのですが、中盤から、葉太が捕らわれている恥の意識、他人のために舞台の上でこうあるべき自分を演じること、亡き父への反発と愛情などが描かれていて、あ、これは笑う小説じゃないと思いました。

 確かに葉太の行動はちょっとオーバーなのだけれども、こういう他人の目を気にすること、自意識ゆえに思い通りに行動できないことって誰にでもあるよなぁと思って。勿論、私にもあります。そして、それを乗り越えるのってなかなかできない。勝手に苦しんでいると言われたらそうなんだけど、苦しいときもありますよね^^;。

 そういう面を葉太は語っているのかなと思い、ちょっと親近感が持てました。そして、最後に葉太が「ヘルプミー」と叫んだとき、自意識の壁、恥の意識を越えた生の声が聞こえた気がしました。葉太が一歩踏み出した瞬間といいますか、成長した瞬間だったと思いました。太宰治人間失格』や中島敦山月記』のように自意識にやられて滅びていく物語ではなく、自意識をちょっと乗り越えたラストで、よかったなぁと思います。

 

太宰治人間失格』との類似点と相違点

 さて、この『舞台』には太宰治人間失格』の話がところどころに出てくるのですが、結構、共通点があります。作者自身が『人間失格』を読み込んでいたのですかね。

 まず、共通点は以下です。

 

・主人公の名前が似ている(葉太と葉蔵)。

父親が有名人ということが一緒(作家で金持ち、地元の名士で議員)。

・自意識過剰で人からどう見られるかを気にして演技をしているのが一緒。

・特に父親の視線をものすごく気にしている点も一緒。

・「恥の意識」を持っており、それに苦しめられている点。

・作中作(作品の中に別の作品が入子型で入っている構造)となっている。

 

 最後の「作中作」について補足しますが、『舞台』の作品の中には葉太が好きな作家の新刊である『舞台』が出てきます(これが作品の中の架空の作品です)。一方、太宰治人間失格』では、「私」がマダムからもらった葉蔵という男の手記を紹介するという形になっています(つまり、葉蔵の手記自体が作品の中の作品という入子型の話になっています)。

 余談ですが、『人間失格』が本当に自意識から滅びてく男の話かどうかという点が疑わしいのは、葉蔵の手記自体が人に読まれることを想定して書かれたものだからです。実際、「私」という小説家が手記を『人間失格』という作品として世に出したと考えられます。となると、葉蔵は最後まで道化、他人からこう思われるだろうという意識から逃れられなかった(あるいは、他人の目を意識して、自分の正しさを主張している)と解釈することもできます。

 ……あ、『人間失格』について語ると脱線しそうなので、本筋に戻します^^;。

 

 さて、次に『舞台』と『人間失格』の相違点ですが、

 

・葉太はラストで「自分は恥知らず」だと思い、そこから等身大の自分を受け入れたように思うが、葉蔵は最後まで自意識から逃れることができなかった。

 

 結局は、そこかなぁと思いました。共通点の最後でも書きましたが、『人間失格』の葉蔵は他人の目を意識することから逃れていない気がするんですよね。逆に利用しているというか…(私の勝手な解釈ですけど)。

 一方の葉太は、死ぬのは怖い! 自分からは逃れられない!!という危機的な場面を乗り切った感じがします。等身大のありのままの自分を他人に見せることができるようになっています。

 そこが大きな違いかなと思いました。そして、個人的には葉太のステップアップがよかったね!と応援したくなる気持ちになったし、自分も自意識を乗り越えて「ヘルプミー」とありのままの自分を表現できるようになりたいなぁと思えました(^^)。

 

 

舞台 (講談社文庫)

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